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吉田次作商店東京工場 |
第二次世界大戦後印刷業は「文化産業としての使命感」を持ち、いち早く生産を開始した。
当社も昭和21年(1946)5月、現本社所在地に各工場、事務所、社宅、寄宿舎を集中・移転し、ここを本店とした。当時はノート類や便箋など学童、家庭用品が生産の主流となっていた。一方、懸命の努力で東京への進出も果たし、これを足がかりに全国へと営業網を拡大した。東京では当初紙製品販売を主にしていたが、これを印刷中心に変え、官公庁や公企業への営業展開を強めた。
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昭和28年2月本社工場焼失 |
昭和28年(1953)2月25日、それは、冷たい雨が降る早朝。
本社工場から出火し、瞬く間に工場、事務棟など19棟を焼失した。国内に3台しかない2色刷高速輪転機をはじめ、損害額は当時で1億3,000万円余と甚大なものだった。敗戦からの復興が軌道に乗り、法人化を果たしてわずか2年余りで味わった、当社最大の痛恨事だった。
当時金沢本店の主力製品として群を抜いていたのが「ヨシダノート」だったが、生産設備の焼失により、その生産を断念せざるを得なくなった。このことが、当社が美術印刷を中心とする総合印刷会社へと方向を転換する契機となったともいえる。
東京支店をはじめとする社員の並々ならぬ頑張りや関係会社の協力を得て、再建は急ピッチに進められた。
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ヨシダノート |
全国の子供たちに愛用された「ヨシダノート」
昭和20年代に生産・販売していた学童用学習ノート「ヨシダノート」は、全国有名百貨店でも販売されたヒット商品。とくに評判が良かったのが各ページにお話を盛り込んだ「童話ノート」で、実用新案特許も取得していた。
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