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大正時代の店頭 |
明治39年(1906)6月1日。弱冠22歳で吉田次作(初代)は、ヨシダ印刷の前身となる吉田軍用堂を立ち上げた。富国強兵、殖産興業の諸政策を推し進めていた当時の日本は、日清戦争、日露戦争と続いて勝利。その後、景気は一時停滞したものの、大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦によって回復、印刷業界も活気づいた。もともと、奉公先であった陸軍御用商人高柳商店の紙商を継ぐ形で始めた吉田軍用堂は、軍関係をはじめ官公庁の仕事を多く請け負っていた。次作は兵士慰問のためにシベリアに赴き、帰国後には軍から大量の発注を受け、業績を順調に伸ばした。
ところがシベリア慰問からわずか1年、大正11年(1922)12月、次作は38歳という若さでその生涯を終え、
あとには妻と12歳を頭に5人の子供たちが遺された。
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誰もが事業の閉鎖は已む無しと考えた。しかし、番頭をはじめ当時の従業員たちの盛り立てにより事業は継続され、長男・豊次が次作を襲名して、吉田軍用堂は吉田次作商店として再出発を果たした。こうして次作(二代目)は周囲の人々に支えられ、尋常高等小学校を卒業するとすぐに商売の道を歩み始めた。日本が軍事国家へと傾倒していくなか、軍司令部から印刷所開設の要請を受け満州に工場を開設。派遣された従業員とその家族たちは「印刷開拓団」として活躍した。しかし、日本の敗戦で彼らは、着の身着のまま祖国へ引き揚げ、満州工場に終止符が打たれることとなった。 |
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龍の看板 |
大正8年から昭和8年まで、店舗の小屋根に大看板と並んで龍の彫り物があったため、人々からは「龍のいる紙店」と呼ばれ、親しまれていた。 |
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